blog/2008-03-02


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やはり、現実逃避したところでショックは抜けない。不安感を隠す・・・いや忘れるためにゲーム、プログラミング、サイクリング、ネットいろいろやった。葬式直後はあれだけ冷静でいられたのに、まったく、今頃になって急に現れてくる。鬱病だった頃の突然何とも言えない息苦しさに似た感覚が訪れてきている。違いは、はっきりとした原因があるかそうでないかだ。少なくとも、天井から訳のわからない黒い液体が降ってきたり、なんだか訳のわからないものがワーッっと押し寄せてくるといった症状には今のところあっていない。

いったい何をやっているのか?結局2月はあれからずっと頭が全然回らない状態で過ごしてしまった。とりあえず、前回書いた続きから一つ一つ書いてみよう。

翌日

祖父が亡くなった翌日。玄関から入ったすぐ隣の和室が、安置所になった。夕べはとにかくあわただしかった。2階から古い布団を持ってきて、葬儀やが持ってきた、シルクの布団カバーを付けて、その上に遺体を乗せて、整形を行った。さすがに死んだ直後の口を開けたままの状態にするわけにも行かないので、顔をベルトのようなもので口を閉じた状態で固定するためのベルトのようなものを付けていたが、翌日には取り外された。幸いそのあとは残っていない。とりあえず、祖父に「おかえりなさい」と言った。

その間に整形師が顔を整えたのだろう、安らかな死に顔になっていた。整形師には感謝をするべきだろうが、所詮作られたものでしかない。昨日の最後の見舞いの時に苦しんでいたのを思い出すとどうしても、そういう考え方になってしまう。だからといって、あのままでは見ている方も苦しい。

そう思う原因のひとつとして、自分には過去に2人ほど同級生の葬式に立ち会ったことがある。いずれもなじみの深い友達だった。一人はくも膜下出血で突然亡くなり、もう一人はバイク事故で亡くなった。まだ10代だったのにいたたまれない。特に後者は葬式の時にひどい死に顔で棺の中に入っていた。今でもはっきり覚えている。黄色い肌、そして、整形しても直らなかったのか、左唇を上の歯でかんだ状態だった。棺桶は普通顔の部分だけに窓が開いているが、事故死ということを考えるとそこから見えない部分がどういう事になっているのか、想像もつかない。

しかし、自分が行けたというだけでも良かったのかもしれない。卒業後数年間音信不通な状態でも葬式に行けるということはある意味幸せなのかもしれないのだ。可能性としてはとっくに中学校時代のことなんか忘れて、葬式は愚か死んだことさえ知らない可能性の方が多いのだ。友達は、高校に入るときに変わる。そう昔父が言っていた。実際そうだった。中学校時代の友達とは会うことは滅多に無い。大学入って一人上京して(中学校時代の知り合いで東京方面に行った人はいなかった。みんな地方に行ってしまった。それ以前に理系に進んだのも自分だけだった。)からは、高校の頃の友達でさえほとんどがあわなくなった。後者は、中学校時代の先生に大学合格の報告をしていたから、大学に入ってからだったと思う。そんなものなのだ。

死とは?

急にそんなことを思い出した。で、その不安を紛らわすのと、親に葬式のことをネットで調べておけと言われたので、Wikipediaで情報を集めることにした。隣の部屋では、親が死亡届を書いていた。見た様子、結婚届の緑色を黒くしたような感じ・・・。

Wikipedia?

ショッキングな事は多く書かれている。なにかに気がついたような気がしたが、結局何を読んだのかはっきり覚えていない。死んだらどうなるのかとかよりも、それからの振る舞いについてを考えた。特に死生学の項目はいろいろと考えさせられた。端的に言うと、我々はあまりにも死というものをタブー視していると言うことだ。誰にでも訪れるものだが、恐れ、忌み嫌い、悲惨に思い排除しすぎているのだ。もしかすると、この辺の教育が日本人には不足しているから自殺率が高いのではないのだろうか?これは、最近、子供の間で多く言われている「死んでも生まれ変わる」という考え方が問題だ、以前の問題である。

昼頃になって、湯灌が行われた。湯灌とは、遺体を洗う儀式である。実際の作業は専門家がやるが、その前に家族の手によって清めの水を逆手で持ったひしゃくでかける。ちょうどその直前に妹が帰ってきた。母は、祖父が急に笑ったような気がしたといっていた。そんなことがあるわけないのに。まったく、自分の中では現実主義と理想主義がさっきから入り乱れている。苦しんで死んだ。という現実主義と、死ぬ前にあえて安心して他界したという理想主義。しかし、当の本人ならば後者のように考えて欲しいだろう。苦しい姿を見せることは見る方も辛いが、見せている方はなおも辛い。はっきり言って納得できるものでもないし、割り切れるものでもない。しかし、ここは後者の考え方で納得するしかない。まるでプログラミングをしていて、関数の値を決め打ちするかのような事だ。

余談だが、当時作っていたWeb素材/PukiWiki/mml.inc.phpのサンプル曲として打ち込んだバッハの曲のオリジナル(マビノギ用)を作ったのは1年ほど前だが、先月の初め、このプラグインを作るときになぜかその曲をサンプル曲として選んだ。というのは、ゲーム中の合奏用にまたこの曲のMMLを作っていたからである。このプラグインの基本的な部分が完成し、公開するときに事件が起きたのだ。偶然なのだろうか?当時はバッハの曲をMMLにしたいぐらいにしか考えてなかったが、よくよく調べてみると、当時のキリスト教の死生観を表す曲だった。

涙が出てきたのは言うまでもない。こんな感じで、死んだ翌日の夜を過ごした。いずれ、動画投稿サイトにこの合奏をアップロードすることだろう。

葬式

なんだか、ここ数日間の時間感覚がおかしい。毎晩、寝る前に祖父に「おやすみ」といってるが、まだ2日しかたってないのにもう1週間も過ぎたような気がする。そればかりか、何時の事だったのかもあやふやだ。葬式の事を調べたのは夜だったような気がするけど、その直後に湯灌をやったような気がする。湯灌やったのは、昼の2時だったのに。白昼夢をみているかのようだ。それだけでなく、礼服を持ってなかったので買いに行ったりもした。あれ、午前だったかな?テンパった頭で、友達にどういう服を買えばいいか相談したり。で、翌日、葬儀場へいくことになった。確か10時ぐらいに車で出発したような気がするが、それから夜の葬式までの記憶がさっぱりである。何をしたのか?葬儀場にいるはずなのに、家でパソコンでやって家紋について調べている記憶がある。

とにかく、今日(17日)は、葬式会場に来て、そこで1日泊まり翌日火葬である。で、17時から葬式だ。内容は、法要、思い出の言葉、戒名などで終わった。以外かもしれないが、自分は割と信心深い近い方である。毎月1回はお寺にも行くくらい普通にやっている。(念のため言うが、S会じゃないぞ)仏説摩訶般若波羅蜜多心経ぐらい暗記できる。だからだろうか、非常に耳慣れた読経が聞こえてきたことが、逆に悲しさを感じさせるものであった。読経というと普通の人間にとっては、彼岸や葬式ぐらいでやるその場特有の儀式であるというイメージしかわかないが、少しでも生活の一部になっている者にとっては日常なのである。まさに日常の中の非日常・・・。

かなり多くの人が訪れた。中には作業服のまま会社の部署単位で来た人もいた。しかし、あまり記憶が残っていない。

二律相反

葬式終了の9時頃になって夕飯である。食事はともより、ただ、生前どんな様子だったのかを思い出していた。

確か、6月に心臓の弁を煩っていて入院し、手術を行った。数年前から早めに手術するように言われていたようだし、祖父の仕事の手伝いをやってたときも、そういう話を聞いていたので、いずれはやることになっただろう。しかし、最後まで嫌だといっていた。結局手術自体は成功したが、脳に血栓のようなものができ、数日間の昏睡状態の末、半身麻痺になりかけた。以来何度もお見舞いをしたが、ほとんど話らしい話はできていない。

また、7月末から9月中旬まで軽井沢でアルバイトをしていたので、その間は当然見舞いにいけていない。しかし、これといってネガティブな話は入ってこなかった。blog/2007-08-24に西武ユリ園に行ったときは、見舞いの代わりにそこで売られていたユリを宅配で送った。残念なのは、結局そのおみやげを祖父が見ることが無かったことだ。病院に置くのは「根が張る」ということでよくないという事だそうだ。それでも、写真で見せてあげれば救われたのにそれすらなかった。

9月の時点でリハビリに入っている予定だったが、まだそういう状態ではないということで、リハビリには移れなかった。で、10月に大学に戻ると、悪い知らせばかり入ってくるようになった。父親はもうだめかもしれないみたいな事をよく言うようになった。つい先週あったばかりなのに。

特に12月当たりからそういう話が多くなった。無論信じなかった。希望を捨ててどうするのみたいな感じで反論した。1月にあったときも、あまり状態が変わらないように見えたので、自分が「困った」とつぶやくと、「困ってない」と答えが返ってきた。それを聞いて自分は安心したのだ。しかし、それが祖父のしゃべった最後の言葉になってしまったのだ。

これはあくまでも結果論でしかないが、手術を受けなければもう少し生きながらえたのかもしれない。あとになっていろいろ聞くと、リハビリに移れなかったのは、リハビリをやった直後下血があったとのことだったらしい。しかも、全然関係ない場所の、いや病気にすらなっていない場所からの病気だった。前立腺ガン。手術前にも予兆のようなものがあったが、無視できるくらい小さなものだったらしい。それが手術後何らかの理由でガン化し、ふくれあがって直腸のほうまで浸透し死に追いやったとのことである。手術に失敗があったならばまだ救われた。いや、それではその手術を行った医師に禍根が残る。じゃあ、うけなければ良かったのか?もう、何が最良だったのかわからない。ふと、祖父が昔言っていた言葉を思い出した。確か中学校か高校ぐらいの時の話だ。祖父の知り合いが病院で亡くなり葬式に行った帰りに「どうせ、自分は後先短いんだ。だったら、死ぬときはぽっくりと逝きたいものだ」と言った。それがこういう結果になってしまった。

さきほどのWikipediaの情報によると、日本で死ぬ最後の場所の90%以上は病院らしい。それも長期にわたって入院した末である。病院とは、本来病気を治すために退院すべき場所なのだ。しかし、現実は人生最後の場所にもなっている。皮肉にも、この葬儀場は祖父が入院していた病院ではないが病院と隣接している。これはその現実を優に物語っているものでもである。直るべき病気を直す病院なのに、死を決定づける葬儀場。入院患者にとっての蟠りは計り知れないだろうが、逆に死んだあとの事を考えると、安心して弔ってくれるという保証の証でもある。二律相反だ。

結論は永遠に出そうにない。


Last Modified: 2008-03-03 00:14:08