blog/2006-06-22


Total: 2067 / Today: 1 / Yesterday: 1

ふう。気がついたら2週間以上日記をほったらかしにしていた。どうも、最近不安定だ。いや、1年のうち少なくとも2/3は不安定だから変なことでもないか。

とりあえず、FF11関連のコンテンツは、おおむね作成完了。今日をもって当分メジャーな更新する必要はないだろう。気晴らしに1日中ヴァナの中にいようなんて、少なくとも今年に入ってからは、そういう気分にはなったことは無い。

疲れたで1日が始まり、疲れたで1日が終わる。いつから、そんな状態になったのだろうか?たまには、体を動かした方がいいだろうと考えて、先週の土曜日にプールに泳ぎに行ったが、泳いでいる最中や帰ってからその翌日までは少しは気分が晴れたが数日も経たないうちに、逆に行く前よりも精神的状態が悪化してしまった。

急に外の光が鬱陶しく感じるようになった。でも、別に今初めて経験した事でもない。ひどいときには、朝日が憎いとさえ思ったこともあったし。そこまで精神状態は悪くは無いが、いずれそうなるのではないかという不安はある。本当マジで外に出たくない。

原因はだいたい検討はつく。就活でどこいってもうまくいかない。というか、行くこと自体ストレス。準備をするだけで嫌になる。よく、「明るい未来を考えろ」とか、「5年後の自分はどうしてるか考えてみよ」と言われるが、明かろうが暗かろうが未来のことを考えるだけで滅入る。暗い未来を想像して滅入るというのは、だれでも共通だろう。しかし、明るい未来を想像して滅入るというのはわかりにくいかもしれない。

自分は、本を読むのが好きだったので、ファンタジー小説の要領で、聖書や仏教の本を読みあさった時期があった。*0で、その仏教における極楽について興味深いことが書かれていた。

まず、Wikipediaからの引用:

「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論 )には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。

要は、苦しみもなく、美しく平和で豊かな生活が約束されるような事が書かれている。一般的に天国と言われているのはこの部分だけだろう。しかし、これには実は続きがある。聖闘士星矢でも少し話題になっていたが、その天国に行った者もいつかは朽ちていくであろうと言うような下りがあったのを覚えている。それもグロテスクに表現されていた。

確か、蓮の花は次第に枯れてゆき、自分の顔から腐った肉片と一緒に溶けていき、醜くなってそこにはいられなくなり、輪廻の中に戻されるといったような内容だったと思う。学生の頃Macでやった「魔界都市京都」という、Micromedia Directorを用いたゲームソフトでも同じようなシーンがあったなぁ。

つまり、未来というのは、明るくてもそれは見かけであって中身はどんなに美しく見えても、いつかは腐って溶けてしまう者なのではないかとおもう。現実に置き換えて考えると、自分の思ったとおりに会社に入れたが、やってるうちにだんだんだれてきて、どうしようもない状態に陥ってしまう。結果的に暗い未来と大差は無いことになるわけだ。

だから、未来は考えるだけ無駄なものだとおもう。ベストを尽くしても最悪続きでも結果的に大差なんてでない。やはり、今だけを生きたい。過去に引っ張られすぎるのも嫌だが、未来の事で左右往来するのはもっと嫌だ。


Last Modified: 2006-06-22 02:40:53