世界の狭さを考える

普通なら、「世界の広さを考える」にするべきなのだろうが、とてもそうは思えない。逆に狭さだけを感じる。正確に言うと、自分が現実と思える世界の広さなんてたかがしれているということだ。もちろん、自転車、車、バス、電車、飛行機などを使っていればもっと広い空間を歩いているのかもしれない。現実だけにこだわらなければ、インターネットで世界旅行だってできるし、RPGやネトゲで仮想的に世界一周すれば距離に換算すれば、広大なものになるのかもしれない。しかし、それを全部足したとしても人間が一生の内に歩き回れる絶対面積は、数十平方キロメートルに満たない狭い空間なのではないのだろうか?

じゃあ、ある場所に向かうとしよう。色々下調べをしてルートを計画し、実行する。しかし、それは、いつのまにか目的地と出発地点の2つの点を結ぶ線になる。なぜか?移動することと時間を使うこと以外に意味が無いからである。「そんなことはないぞ。風景の移り変わりを見るのを楽しむんだ」と言いたくなるだろうが、果たして本当にそうだと答えられるか?重要なのは、目的地で目的をこなすことであって、その課程で起きたことは、目的が達せられれば意味は無いのだ。

問題なく目的地に着くまでの間、その途上であった事をいちいち思い出すことがあるのだろうか?立て看板や、きれいな建物、風景を見た、せいぜいその程度であり、時間的にはただ移動しているだけの方が圧倒的に長い。記憶に残ることは皆無だろう。つまり、すくなくともその時間は、ただ単に点と点を結ぶ線として積分されるだけの事である。ここで、現実となる世界は、何もなければ、出発地点と目的地だけであり、残りはただ単に箱に乗って移動したぐらいにしか意味は無い。


ここまでは、空間的な話だ。最近よう取りざたされる「格差社会」というのがある。自分から見ると、極端な場合を除いて、ただの詭弁にしか思えないばかりか、大きなお世話でもあると思う。もしも、問題にするならば、もっと遡らなくてはならないだろう。それは、価値観の相違である。

じゃあ、医者になりたいと思って医者になった人と、記者になりたいと思って記者になった人を考えてみよう。結果、社会的地位も収入も明らかに医者の方が上である。ここでの共通点は、なりたい職業に就けただけである。しかし、明らかに格差が生じているとは言わないか?もっと遡れば、どうしてその職業になりたいのか、どうしてそれに興味があるのかという、価値観の相違に帰結するだろう。もしも、格差社会を取り上げるとなれば、価値観の相違まで遡らなくてはならない。

もしも、これを是正するならば、どんな職種であれ、報酬も統一することが平等という事になる。おそらく、共産主義者が言いたいのはこのことだろう。しかし、現実にそれを行った国は全て崩壊した。生活すらできなくなった。所詮、平等とはその程度の価値しか無いのだろう。だから、詭弁にしか感じられない。


一見異なるもののようで、さっきの世界の狭さとこの格差とはリンクしているように思える。この価値観の差は、気がつかないものでも何でもない。多くの人にとって、意味が無い問題なのだ。

電車に例えるならば、目的地まで行くための通過駅みたいなものだと思う。降りる必要が無いのに、途中下車する必要があるのか?といっているようなものだ。しかし、電車には色々な人が乗って降りる。ただ共通するのは、同じ電車に乗って同じ時間を共有している事だけである。服装や話すことが気になることがあったとしても、目的地に向かうという事からすれば論外である。さきほどの価値観の相違は、同じ電車に乗っている他の乗客が、どこから乗ってどこに降りるのかを詮索するのに似ている気がしてならない。

結局重要なのは、目的地に着くことであって、それ以外はどうでもいいのだ。そして、その瞬間から出発元から目的地までは、単一の線に積分される。移動したという事実は大して意味が無い。その目的地でさえ、いくつも建物があるのに、関係ないと判断した瞬間に背景になる。これで、だいぶ世界が狭くなっただろ?

「じゃあ、今から町内一周しなさい。」そのとおりに、歩いてみよう。自分の足で歩き回るから、現実であるかもしれない。しかし、誰でも始めてから5分もしないうちに、別のことを考える。それが、「あとどれくらいかな」だったり、「早く終わらないかな」というものから、全然関係の無いものまでで埋め尽くされる。この瞬間から、世界から現実の大半が消えるのだ。現実として頭に残っている事は、目の前の経路、最小限の状況判断だけになる。「あの家の中はどうなっているだろう」という疑問は持つかもしれないが、「あそこの家族構成は・・・で」とまで考えるのは泥棒か、ストーカーぐらいだろう。知る必要もないし、考えることもない。そうなると、現実を構成する要素とは意外と少ないのだ。